3.11

2011年3月11日

その日は、全国的にとても辛い日になった。

自身も実家が仙台市内で、津波の影響はないと思っていても、あの震度で古い木造住宅に住んでいたので、この日から丸4日間、故郷の両親とは連絡が取れず、ひょっとしたら倒壊等でいよいよダメかと本当に感じたほど。

大切な人の死を、身近に感じた唯一の日でした。

画像は宮城県の女川町。

東日本大震災の半年後に、工務店仲間の方々に便乗させて頂き、炊き出しのお手伝いで現地に伺った時の画像。

炊き出しの現場までの進路は、ここを通らなくてはならず、今でもあの状況を見た時の衝撃は、忘れられない寂しい感情だった。

あれから数年に渡って、年に3~5回の頻度で、女川町の炊き出しに行かせて頂いたが、常に多くの現地の方々が集まる場になるのを見て、被災というリアルな困難を感じたのを今でも覚えています。

今、自宅の近所の公園で、仮に炊き出しを行ったとしても、子供が興味本位で集まるとは思いますが、大人たちが家族で集まるイメージはありません。

当時の女川町は、仮設住宅にお住いの方々全員が、炊き出しのテントにお越しになられました。

結果、今も元気に両親が暮らせているのは、あの女川の凄まじい状況を身近に感じたら、3.11を経て生きているのは奇跡だったかなと思う。

あれから9年が経ち、当時2.2万世帯あった仮設住宅も、宮城県では20世帯弱らしい。

何をもって復興というかは、メディアから得る情報以外の部分もあるかと思うので、とても難しい問題だなとも思います。

それでも、いつか完全に復興したと言える、感じる日を待ちたいと思っています。

それでは、また。

No.5001
★幣社公アプリのダウンロードは、こちらから★

↓ ↓ ↓

b

c

★モデルハウスのご案内はこちらです★

↓ ↓ ↓

1

こちらの記事もオススメです